雅な京都

京都の神社仏閣をメインに名所散策しています
小浜湾四季の沖釣行期もリニューアル。 こちらも宜しくお願い致します。→http://blog.livedoor.jp/cenugatuta2010/

タグ:歴史

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世界遺産下鴨神社、(賀茂御祖神社、かもみおやじんじや)
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参道を進むと鳥居をくぐります、右手に手水舎が有ります。
上賀茂神社と同じ、豪族の賀茂氏が、糺(ただす)の森の泉を神格化
したもので五穀豊穣を祈ったものです、
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本殿入り口です、この中には各干支の社が有りそれぞれの干支の社に
お参りするすたいるです、手前の広場では、蹴鞠が行われます、
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此処が御手洗川です、御手洗会では、もう少し多くの水を貯え、
御手洗川に足をつけ夏バテや病の防止に成るそうです、安産にも
良いそうです、
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御手洗団子の由来は、池から湧き上がる気泡を団子に見立た物です、
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参道西側に有ります、君が代の中で出て来るさざれ石です。
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此のケヤキ等の林道は自然林です(糺の森)映画全盛のころには、
毎日のように撮影がされていました。流鏑馬も行なわれます。
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河合神社です、参道の西側に有ります、鴨長明は平安末期の歌人です、
河合神社の禰宜の次男として生まれましが跡を継ぐことができません
でした、苦労の後源俊恵に愛されその指導の元で歌人として
認められました。47歳の時に新古今集の編集に携われました。_W2A9860
可愛い手水舎です、此処も現在社の修復中みたいです、
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縁結びの神様です、また球技の神様みたいです、(サッカー?)
此処から南へ行くと鴨川と高野川が合流します、秀吉の時代に
河川工事が施され、綺麗なYの字に成って居ます、地図を見れば
直ぐにわかります、此処が出町柳駅近くです、叡電鉄道で、八瀬や
比叡山、別ルートで鞍馬山、貴船神社等行ける分岐点でも有ります。
また河合橋を西に渡ると、鯖街道の起点の石碑がたっています、
そのまま西に行くと商店街が有ります、入ってすぐの左側の
うどん屋さんに鯖寿司とうどんのセットあり(売り切れ御免です)



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北野天満宮は、学問の神菅原道真祭られています、約1060年前、_W2A9756
向かいには、豆腐で有名なお店とようけ茶屋が有ります、
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西には天皇陵が有ります、
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参道の西側には、多分秀吉も使ったであろう茶室が有ります。
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北野天満宮のお使いは、牛さんです、自分の良くなりたい所をさすると
良くなるみたいです、
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三光門は、中門の梁間の彫刻に日、月、星が有るので三光門と
言われていますが何所に有るか探して下さい(星は見当ら無いはず)
星は夜に成らないと見えません。
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神殿に向かって右が左大臣で左が右大臣、祭神は菅原道真公と
中将澱(長男)と吉祥女(道真の妻)です、神徳は雪冤と学問の
上達です、平安前期の宇多天皇(59代)は関白家の藤原氏の北家
の独裁を排除するために関白を辞め、菅原道真を重要視し藤原氏に
対抗しましたが、60代醍醐天皇時に、左大臣藤原時平が道真が
天皇廃位を企ての罪で道真を九州太宰府に流すことに成功した、
903年2月25日、道真が太宰府で憤死してから、京都で地震や落雷
が多発、道真を追放した藤原時平は38才で死去、藤原家に相次ぎ
不慮の災いが相次ぎました、また御所の清涼殿に落雷し延臣が
亡くなりました、此れは道真の祟りだとされました。
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神殿の裏側ですが此処から拝んでも正面から拝んだと同じ御利益が
有るみたいです、この右北の方に巫女の多治比文子(たじひあやこ)
の神社が有ります、942年に神からの信託が有り雷神となった道真
を947年に此の地にまった祀ったのが天満宮の起こりです、
1587年に聚楽第の竣工を祝って北野大茶会を開き来会者千余名に茶
を振舞ったとつたえています。
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北野天満宮の北門を出て左へ北川の辻を北へ此れが秀吉の作った
お土居の一部です、洛中、洛外境目です、_W2A9791
続いて西に行くと平野神社です、春には桜の花が満開です、約200種
の桜が古拙を少しづつずれて咲くのです、
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北野天満宮の東へ行くと上七軒言う花街です、秀吉による七軒だけの
許可されたものです。
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ご覧の通り上七軒の歌舞練場です、
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上七軒で有名な和菓子の老松さんです、置屋さんや食事、
お土産屋さんがあります。
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最後に少し面白い実話?を紹介します、北野天満宮南出入口から東へ
バス一駅ほど東へ左手(東側)小さなお寺浄土院が有ります、
秀吉が北野大茶会下準備の為北野天満宮に向かっていたら喉が渇き
浄土院(尼寺だった)により茶を一杯所望せよと言いました、
尼さんは、秀吉とは知らなかったようですが、所望という言葉は
位の高い人ときずき不味いお茶より白湯のほうが良いと考え白湯を
出しました、飲み干した秀吉はもう一度茶を所望したら又白湯が
出てきたので、白湯ばかりで、茶くれへん寺、この寺の名前を
ゆだくさん、ちやくれんじと改名させたという話です。
どうぞゆっくりと京都散策お楽しみ下さい。













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東本願寺は、JR京都駅中央口から一番近い観光地です、駅を出て
北に向かうと、右上に京都タワーが見えます、_W2A5899
此のタワーの形は灯台を模しています、海の無い市内を照らす物
です、昭和39年12月28日誕生の地上約131mのタワーです、遠くは
左京区の宝ヶ池からも見えるものです、また烏丸通が、
ほぼ真っすぐに京都駅に向かっているため烏丸通を南行すると、
時々見えます、(碁盤の目による)
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北に向かうと最初に見える東本願寺です、東本願寺は、徳川家康の
力を誇示するために、慶長7年(1602年)建立したが三代将軍家光
が寺領を寄進した天明の大火災にあい、建物焼失したが明治28年
再建され、全国に末寺8500余り、門徒約500万に及ぶ
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御影堂は明治28年に再建された(御影堂門は明治44年に再建)
内部は、927畳敷きの大広間が有り正面に宗祖親鸞聖人の木像が
安置されています、御影堂は世界有数の木造建築で、
京都では一番大きい建築物です、(10年の歳月をかけ
明治44完成しました)巨大な材木を引っ張る為当時最強の女性の
髪の毛を束ねてロープとして使われました、
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この他「阿弥陀堂」も有ります(明治28年再建)401畳敷きです、
内部正面には、本尊の阿弥陀如来像が有り、向かって右に親鸞聖人
ひだりには、法然上人の御影が祀られています。2015年12末に
御影堂、阿弥陀堂、御影堂門の修復が完成しました、
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東本願寺の敷地からこの様な風景が見えます、
東本願寺原則自由見学です、この近くに(河原町正面)
枳殻邸(渉成園)池泉回遊式庭園が有ります、PM3時30分までに
お入り下さい、東本願寺別邸です、源融(みなもとのゆう)が
海水を焼いて塩を作ったと言われている塩釜の後の石造りの洞窟が
有ります、この池の水は高瀬川三条から引いているそうです、
木々は梅、桜、カエデ、フジなどで四季折々の姿を見せます。
また少し足を延ばして、西本願寺も併せて観光して下さい。

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金閣寺(鹿苑寺)臨済宗相国寺派(約600年前室町時代)
足利三代将軍義満が財力と権力を誇示するために、10年ほどの期間
をかけて北山山荘として建てた物(室町時の代名ひら伏せる為)
義満の死後遺言により寺となった(義満の法号鹿苑院殿)にちなみ
鹿苑寺と成りました。

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夕住亭(せっかてい)北山文化といわれ、茶室にも充実した物が
多い時代です、(明治初年に焼失同7年に再建)

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中央の石が鯉魚石(りぎょせき)と呼ばれ、中国のことわざに
鯉が滝を登れば龍に成る、龍=仏様です。
人も修行次第で仏に成れるらしいです。

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京都にはお盆の行事として五山の送り火決して山焼きとは言わない
で下さいタブーです。山焼きと違い祖先が迷いなく帰られる道しるべ
なのです。尚五山には、大文字・妙法・船型・左大文字・鳥居型が
有ります、この左大文字は金閣寺の近くに有ります、
また金閣寺の近くには、竜安寺・等持院・仁和寺・等有り又西に
向かうと嵯峨・嵐山へと続く世界遺産道も言います。

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